6月26日
紫陽花の写真
を散歩している時にふと撮ったんですね。
それで気づいたんですけど、紫陽花がめちゃめちゃ気持ち悪いと思ったんですよね。それがいわゆる集合体恐怖症なのかどうかはわからないんですが、集まっているのが不気味。例えば一房だったらまだ耐えられるんですが、房がポコポコ集まっていたりすると、毒々しいキノコにしか見えない。そういえば確かにキノコとかもめっちゃ苦手ですね。鮮やかだとなんかゾッとする。
紫陽花については今までそれが花だという先入観から「綺麗だな」と思えなければ損な気がしていましたが、これからは騙されず、花だろうとなんだろうと気持ち悪い物は気持ち悪いと、ちゃんと思った方がいいなと感じました。
そのゾッとする色合が多いのがディズニー系のカラーリングなんですよね。
「センター・オブ・ジ・アース」とか「プーさんのハニーハント」とかはまあところどころ気持ち悪い狙いのところもあると思いますが、結構怖いのが「マーメイドラグーン」一帯ですね。ウネウネとか鮮やかとかが苦手なので結構ゾッとします。
割とそういうのから目を背けて生きてきたような気がしますね。無意識的に。
6月22日
先生マトリックス
を書きます。
「人に教えられる歴」13年目に突入したわけですが、ここまで「教わる人」を何年もやっていると「どんな先生がいるのか?」とか「この先生はどんなタイプか?」、また「この先生はどのくらい課題を出すのか?」が読めるようになってきます。今回はその経験を元に、先生をパターン別に分類してみましょう。
分類に際して
「優しい」⇄「冷たい」
「厳しい」⇄「ゆるい」
という二つのものさしを使おうと思います。
(ド偏見なので、例外もあります)
パターン1:「優しい」×「厳しい」
厳しいけれどなんだかんだ優しい先生。ベテランで、管理職に就きがち。
対応:言葉遣いが厳しめ・強めなので最初は怖いが、夏ぐらいには謎の安心感を醸す。連絡がやたらとこまめで手厚い。
慕われ具合:一部苦手な人もいるが、結構な人から「しっかりしている」という理由で高評価。生徒愛が伝わっているので、卒業式ではみんなにサプライズとかしてもらえるぐらい慕われている。そのときにいつもは厳しい先生が涙を見せると、好感度はインフレ的に急上昇。
課題:小出しに出してくるのでスパンは短いが、ちゃんとやれば余裕でこなせる。重めの課題は早めに提示してくれるので、みんなに感謝される。
パターン2:「冷たい」×「厳しい」
一番嫌われるタイプ。
対応:生徒にそもそも愛がないので、ことあるごとにキツく当たるか、信じられないような嫌味をいう。
慕われ具合:最低。悪い評判しか流れない。
課題:当然のように大量に出す。しかも締め切りが早め。また、誰も使っていないアナログなシステムや自分ルールを押し付けるので、煩雑な作業を強いられる場合が多い。
パターン3:「優しい」×「ゆるい」
タイプはかなりあるが、総じて滅多に怒らない。授業中に寝ても許してくれる。
対応:30代くらいだと結構生徒とコミュニケーションをとる。明るくて優しい。たまに生徒をイジるし、イジられることもある。年配だとそれほど活発なやりとりはないが、授業中に話している姿は生き生きしていることが多い。「話好きおじさん・おばさん」のような感じ。
慕われ具合:文化祭の企画名に先生の名前が入るぐらい慕われている。卒業式では結構な人に写真を求められる。
課題:そんなに多くない。多少は多めにみてくれる。
テクノロジー:使える。というかむしろ使いたがる。年配だと少し耐性が下がる。
パターン4:「冷たい」×「ゆるい」
一見普通そうな先生。だが全く生徒に愛がない。
対応:なんとなくいい人感を出してくるが、よく見るとめちゃめちゃ性格が悪い。成績を喜んで下げる。
慕われ具合:罠に引っかかって「あの先生いい人」などと思ってしまう人が結構多いが、察しのいい男子は裏で熱心にネガティブキャンペーンをしている。
課題:あるとき突然人が変わったように大量の課題をだし、生徒を困惑させる。その手のひらの返し様は、今までの対応全てが伏線だったのではと思うほど鮮やか。
皆さんもいろいろな面から先生を分析して、コミュニケーションの取り方などを模索していきましょう。
6月21日
昨日の日記
を覚えていますか?
正直序盤で「何言ってるかわからん」みたいになった人が多いと思います。もしかしたら最初の一行でページを閉じてしまった人もいるかもしれません。
なので、
「カブトムシでもわかる『知のヒエラルキー』」
ということで簡単な言葉に書き換えていきたいと思います。
まずは第一段落です。
おそらく知にもヒエラルキーはある。しかしそれはアクセス可能性としてのヒエラルキーではない(というか得られる前の知は均質かつ平等なものである必要がある)。ここでいう知のヒエラルキーは「どのように使うか」ということの階層秩序である。
カブトムシに「ヒエラルキー」や「アクセス」とか概念的なことを言ってもわかりません。 もっと具体的かつカブトムシに身近な話題から入るのです。さらに不必要な文言(推測や否定)は話が遠回りになるだけなので、結論だけスパッと言いましょう。すると、
ツノは使う事が大事。
上手にツノを使えるカブトムシが王様。
続いて第二段落です。
職業差別意識は全くないが、知のヒエラルキーは社会階層の一番見えやすい職業のなかに現れると思う。日本では知識を使って仕事をする人、例えば教師や医師、作家を「先生」と呼んで、社会の中でも比較的高い位置に位置付けてきた。ただし留意するべきは、これらの人々は知識をあくまで「道具」として使っており、知識を「持っていること」自体が評価されているわけではない。
カブトムシに職業はありません。ここの置き換えが難しいところではありますが、カブトムシの気持ちになって考えます。彼らの中での価値観は「樹液」と「メス」です。
ツノを使って樹液をなるべくたくさんとる。
ツノの大きさより、強さの方が大事。
強いヤツがメスとれる。
第三段落、第四段落も要は同じです。
しかしもう一つの側面として、人間には知的好奇心・探究心というものがあり、「たくさんのことを知りたい」と思うのと同時に「たくさんのことを知っている人はすごい」という価値観がある。だから「博識」とか「物知り」という評価が生まれ、「たくさん知っている事が偉い/教養がないことは悪」という「どれほど持っているか」のヒエラルキーがあるのもまた事実だ。特に現代の情報社会はそれに輪をかける。もはや知識の母数は無限大となり、そこでは使うことよりも得る事が先行している。
この知識量至上主義で特筆すべきは「他人の知らないことをたくさん知っているから偉い」という質的な一面もある事だ。しかしながらこれは一概には否定しがたい。例えば教師は人の知らないことを教授する事が仕事であり、医師は人の知らない知識を使って診断・治療をする。実際、他人が知らないことを知っているということ自体は十分に価値である。しかしそれが量至上主義的になるとやはり「知は利用するものだ」という本質から遠ざかる。その最たるものがクイズである。確かに東大王は一般の人が知り得ない知識を持っている。しかしそこに他者のための利用という目的はなく「得る事」が自己目的化している。その原動力はやはり「他人と違うことをたくさん知りたい」ということに他ならない。これはボードリヤールのいう消費社会の構造に似ている。「記号」としての知は自分と他者を差異化し、知は所有する段階ですでに「消費」されている。
ただカブトムシの世界にボードリヤールは通用しないのでこの辺はカットします。代わりにもっと(カブトムシにとって)わかりやすい例を入れましょう。
だけど人間はツノの大きさでカブトムシ比べる。値段つける。
ツノの大きいカブト、「ムシキング」では強い。
最後は第五段落です。落とし所は人間もカブトムシも一緒です。
しかし現代、知のアクセス可能性自体が技術の進歩で大幅に底上げされた。だからおそらく「調べればすぐになんでもわかる」状態が普遍化した場合、そこに知識量の多寡という価値観はもはや存在し得なくなる。顕著なのは高校生クイズがある時を境にいきなりひらめき勝負のようになったことだ。昨今叫ばれる「AIに仕事を奪われる」というのもその類の話だ。知のヒエラルキーは今後「どのように使うか」にシフトしていくだろう。それが良いことか悪いことかはわからないが。
結局文章は繰り返せば繰り返すほど良いわけです。特に相手の頭がそんなに強くない場合は。ということで結論は第一段落のほとんど繰り返しが良いでしょう。
だけど「ムシキング」もう流行らない。
だから、ツノは使う事が大事。
上手にツノを使えるカブトムシが王様。
いかがでしょうか?カブトムシの皆さんにもわかってもらえるような文になったと思います。ただ書き終わって気付いたんですが、オス前提の文章ですね。フェミニストのカブトムシに見つかると大変なので黙っておいてください。
6月20日
知のヒエラルキー
は存在するか。
おそらく知にもヒエラルキーはある。しかしそれはアクセス可能性としてのヒエラルキーではない(というか得られる前の知は均質かつ平等なものである必要がある)。ここでいう知のヒエラルキーは「どのように使うか」ということの階層秩序である。
職業差別意識は全くないが、知のヒエラルキーは社会階層の一番見えやすい職業のなかに現れると思う。日本では知識を使って仕事をする人、例えば教師や医師、作家を「先生」と呼んで、社会の中でも比較的高い位置に位置付けてきた。ただし留意するべきは、これらの人々は知識をあくまで「道具」として使っており、知識を「持っていること」自体が評価されているわけではない。
しかしもう一つの側面として、人間には知的好奇心・探究心というものがあり、「たくさんのことを知りたい」と思うのと同時に「たくさんのことを知っている人はすごい」という価値観がある。だから「博識」とか「物知り」という評価が生まれ、「たくさん知っている事が偉い/教養がないことは悪」という「どれほど持っているか」のヒエラルキーがあるのもまた事実だ。特に現代の情報社会はそれに輪をかける。もはや知識の母数は無限大となり、そこでは使うことよりも得る事が先行している。
この知識量至上主義で特筆すべきは「他人の知らないことをたくさん知っているから偉い」という質的な一面もある事だ。しかしながらこれは一概には否定しがたい。例えば教師は人の知らないことを教授する事が仕事であり、医師は人の知らない知識を使って診断・治療をする。実際、他人が知らないことを知っているということ自体は十分に価値である。しかしそれが量至上主義的になるとやはり「知は利用するものだ」という本質から遠ざかる。その最たるものがクイズである。確かに東大王は一般の人が知り得ない知識を持っている。しかしそこに他者のための利用という目的はなく「得る事」が自己目的化している。その原動力はやはり「他人と違うことをたくさん知りたい」ということに他ならない。これはボードリヤールのいう消費社会の構造に似ている。「記号」としての知は自分と他者を差異化し、知は所有する段階ですでに「消費」されている。
しかし現代、知のアクセス可能性自体が技術の進歩で大幅に底上げされた。だからおそらく「調べればすぐになんでもわかる」状態が普遍化した場合、そこに知識量の多寡という価値観はもはや存在し得なくなる。顕著なのは高校生クイズがある時を境にいきなりひらめき勝負のようになったことだ。昨今叫ばれる「AIに仕事を奪われる」というのもその類の話だ。知のヒエラルキーは今後「どのように使うか」にシフトしていくだろう。それが良いことか悪いことかはわからないが。
5月20日
応用編
です。
今回は基本を元にテクニックを用いてより質の高いたわいない話へと発展させていきましょう。
1.立場と状況の把握
前回は基本的な三つの要素「時期」「気候」「時事」についてお話ししましたが、あれはあくまで基本であり、それ以上でもそれ以下でもありません。無難な話はできますが、その場の状況に応じたオリジナリティとか個性は発揮できないでしょう。いわゆる「月並み」なものになってしまうのです。実際、前回2つのたわいない話の例を載せましたが、会話ならまだしも文章だとあまりにも一般的すぎて読めたものではなかったと思います。
そこで、常に以下のことを把握し念頭において話を構築するようにしましょう。
- 状況(今いる場所、時間)
- 自分と相手の関係(異性間か同性間か、社会的な立場はどちらが上か)
これによってその場に相応しい独創的で質の高い会話ができます。
ここで関係性として絶対に守らなければいけない鉄則は「常に共感者でいる」ということです。前回話にメリハリを出すには「辛くならない程度に苦労や不満を共有する」という話をしましたが、まさにこれです。相手とは議論をするわけではなく、当たり障りのない会話をすることが目標なので、自分の意見を述べることよりイエスマンであることに徹しましょう。ですから相手の話は絶対に「それは違う」などと否定してはいけません。
2.共通の話題を見つける
これは割合初歩的でしょう。そして社会における共通項だと考えれば「時事」の延長線上だとも言えます。要はお互いにわかる話なら、身近であるほどよいのです。例えば自分の属する集団(学校、会社)や共通の知人などでもいいでしょう。
しかしこの場合話のトーンをどちらに持っていくか、案外難しいものです。「時事」であればマイナスからの逆接に持っていけば難はないのですが、身近な話題になるとそう簡単にはいきません。なぜならマイナスな話題にしてしまうと悪口になってしまう場合が多々あるからです。
例えば比較的大きな、所属コミュニティに対してのマイナスな話題だったらまだ良いでしょう。
うちの会社、有給全然消化できないですよね。
→でも今度の土日に思い切って取ろうと思います。
しかし、共通の知人などとなると厳しいですよね。
A教授は課題が多くて、厳しいですよね。
→教え方は上手いですが。
ちょっとフォローになってませんよね。これが当たり障りのない会話かと言われれば他にあると思います。こうなると「悪口をいう人」と認識され、たわいない以上の(しばしば悪い)印象を残してしまうため失敗します。
一方で、目指すべきは上述の通り「共感者」であって「偽善者」ではありません。したがって必要以上に個人や集団を褒め称えるのも不自然です。
〇〇君は勉強ができるしリーダーシップがあって素晴らしい。
ですからこの匙加減はかなり対象、相手、そしてTPOによるでしょう。
3.視線
心理学的にも、2人が向かい合っているよりも同じ方向を向いている方が緊張感を与えにくいことは証明されています。したがってそれを利用し、2人で同じものを見て話すというのは効果があるでしょう。話題にもつなげやすいです。例えば窓の外の鳥でも、手元の時計でも。とにかくその場で話題を見つけて話すと即興で共通性が発生します。
加えてさらに上級者は視線を移動させます。つまり、「窓の外→手元→後ろ」などのように2人の視線をいろいろな方向に誘導することで会話に立体感が出て、話題の豊富さをアピールすることができます。ただし、話につながりがないと「落ち着きがない人」だと思われてしまうため、綿密な計算が必要です。
いかがでしたでしょうか。このように様々なテクニックと計算を重ねるとよりハイレベルなたわいない話ができるようになります。ぜひチャレンジしてみてください。
夢
申し訳ないですが、到底人様に言えるような夢ではないし、説明もできないです。
一日中半径5メートル以内に弟がいる生活で気が狂いそう。多分夢もそのせいです。
5月19日
たわいない話
の例です。まずは読んでください。
もうすぐ6月ですね。もう折り返しです。だんだんジメジメして、暑くなり、過ごしにくい季節がやってきます。梅雨はいやですね。
そろそろ授業も始まったりしだすんですけど、心のどこかでまだ「授業が始まりさえすれば何もかも元どおりになる」と期待してしまうので、ここから(少なくとも)2ヶ月間は通学という概念がない生活をしなくちゃいけないことが改めて受け止めきれないというか。でももはや「毎日決まった場所に決まった時間に行く」という生活にも戻れない気はしますが。
でもなんだかんだ地味にやることはあるし、暇だとも言い切れないのが辛いですね。
たわいない話には3つの要素が必ずあります。これを押さえれば誰にでもたわいない話はできます。
- 時期(季節、月、それに伴う行事や社会の動き)
- 気候(温度、湿度、その気候特色な自然物)
- 時事(世間話。マイナスな話題が多い)
この組み合わせを使えば、どんな時期のたわいない話でも今から用意しておくことができます。試してみましょう。
もう12月も終わり。年の瀬ですね。やっぱり「師走」といいますが、この時期はなんだかんだ忙しいものです。
今年も例年通りインフルエンザがちらほら出始め、やっぱりマスクが手放せません。去年の今頃も体調だけは気をつけておこうと思っていましたが、一年経つと環境も変わり、また別の意味で休めない状況です。バイトとか。
ただ予防接種は早めに済ませたので、手洗いうがいをすれば大丈夫だと思いますが。いろいろイベントもあるこの時期に体は壊したくないものです。
「時期」「気候」分野ではプラスの話題が入ってもいいにせよ(例:今年は野菜が安い)、時事はやっぱりマイナスの話題の方が好ましいですね。加えて最後の一段落で「ただ〜」とか「まあ〜」みたいな逆説をいれましょう。なぜなら、こうすることで「苦労や不満を共有しながらも辛い話になりすぎない」というメリハリのある質の良いたわいもない話ができるからです。そう考えて逆算すると、やっぱり「時事」は少し暗い話題の方が良いことがわかると思います。
ただし話を組み立てる上でなるべく持ち出さない方が良い話題というものもあります。それは、以下の通りなので気をつけるようにしましょう。
- 政治・宗教の話題(議論ならまだしもたわいもない話を組み立てる上では激論になりやすい話は避けた方が良い、というのが「日本人的」思考なのでその枠を超えることは必ずしも得策とは言い難い)
- 文化の話題(音楽や映画、本など、たわいない話にするには共感しづらい)
- その他、意見が割れやすい話題(「鎌倉幕府の成立年代について」など論争になっているものはやはり信じるところによるものなので激論になりやすい)
ただし上級者はまれにこれらの話題をわざと用いて会話に緊張感と奥行きを持たせる、というテクニックを使う場合があります。しかし、その場合は「絶対に自分の意見は言わない」という鉄則を守らなければなりません。くれぐれも聞き手に回りましょう。
とりあえず初心者の方は基本に忠実に「安心して聴ける」たわいもない話を作っていくことが上達の第一歩だと思います。日常的に「本音で喋らない」、「咄嗟に嘘をつく」などのトレーニングをしてレベルの高いたわいもない話を目指しましょう。
次回は応用編です。
夢
うろ覚え。なんか世界史の授業を聞いている夢でした。事前に解いた問題を前で先生(しかも世界史の先生ではなく数学の先生)が解説しているんだけど、全然手元のテキストと違うことを喋っていて、ついていけない。どの問題の話をしているのか分からない。みたいな。
日本史を勉強しだしたら、細かすぎて全然進まないので辛いです。日本人はバカ。