オワコンほぼ夢日記

三密を避けた健康記事

6月20日

知のヒエラルキー

は存在するか。

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職業に貴賤はない

おそらく知にもヒエラルキーはある。しかしそれはアクセス可能性としてのヒエラルキーではない(というか得られる前の知は均質かつ平等なものである必要がある)。ここでいう知のヒエラルキーは「どのように使うか」ということの階層秩序である。

職業差別意識は全くないが、知のヒエラルキーは社会階層の一番見えやすい職業のなかに現れると思う。日本では知識を使って仕事をする人、例えば教師や医師、作家を「先生」と呼んで、社会の中でも比較的高い位置に位置付けてきた。ただし留意するべきは、これらの人々は知識をあくまで「道具」として使っており、知識を「持っていること」自体が評価されているわけではない。

しかしもう一つの側面として、人間には知的好奇心・探究心というものがあり、「たくさんのことを知りたい」と思うのと同時に「たくさんのことを知っている人はすごい」という価値観がある。だから「博識」とか「物知り」という評価が生まれ、「たくさん知っている事が偉い/教養がないことは悪」という「どれほど持っているか」のヒエラルキーがあるのもまた事実だ。特に現代の情報社会はそれに輪をかける。もはや知識の母数は無限大となり、そこでは使うことよりも得る事が先行している。

この知識量至上主義で特筆すべきは「他人の知らないことをたくさん知っているから偉い」という質的な一面もある事だ。しかしながらこれは一概には否定しがたい。例えば教師は人の知らないことを教授する事が仕事であり、医師は人の知らない知識を使って診断・治療をする。実際、他人が知らないことを知っているということ自体は十分に価値である。しかしそれが量至上主義的になるとやはり「知は利用するものだ」という本質から遠ざかる。その最たるものがクイズである。確かに東大王は一般の人が知り得ない知識を持っている。しかしそこに他者のための利用という目的はなく「得る事」が自己目的化している。その原動力はやはり「他人と違うことをたくさん知りたい」ということに他ならない。これはボードリヤールのいう消費社会の構造に似ている。「記号」としての知は自分と他者を差異化し、知は所有する段階ですでに「消費」されている。

しかし現代、知のアクセス可能性自体が技術の進歩で大幅に底上げされた。だからおそらく「調べればすぐになんでもわかる」状態が普遍化した場合、そこに知識量の多寡という価値観はもはや存在し得なくなる。顕著なのは高校生クイズがある時を境にいきなりひらめき勝負のようになったことだ。昨今叫ばれる「AIに仕事を奪われる」というのもその類の話だ。知のヒエラルキーは今後「どのように使うか」にシフトしていくだろう。それが良いことか悪いことかはわからないが。