6月21日
昨日の日記
を覚えていますか?
正直序盤で「何言ってるかわからん」みたいになった人が多いと思います。もしかしたら最初の一行でページを閉じてしまった人もいるかもしれません。
なので、
「カブトムシでもわかる『知のヒエラルキー』」
ということで簡単な言葉に書き換えていきたいと思います。
まずは第一段落です。
おそらく知にもヒエラルキーはある。しかしそれはアクセス可能性としてのヒエラルキーではない(というか得られる前の知は均質かつ平等なものである必要がある)。ここでいう知のヒエラルキーは「どのように使うか」ということの階層秩序である。
カブトムシに「ヒエラルキー」や「アクセス」とか概念的なことを言ってもわかりません。 もっと具体的かつカブトムシに身近な話題から入るのです。さらに不必要な文言(推測や否定)は話が遠回りになるだけなので、結論だけスパッと言いましょう。すると、
ツノは使う事が大事。
上手にツノを使えるカブトムシが王様。
続いて第二段落です。
職業差別意識は全くないが、知のヒエラルキーは社会階層の一番見えやすい職業のなかに現れると思う。日本では知識を使って仕事をする人、例えば教師や医師、作家を「先生」と呼んで、社会の中でも比較的高い位置に位置付けてきた。ただし留意するべきは、これらの人々は知識をあくまで「道具」として使っており、知識を「持っていること」自体が評価されているわけではない。
カブトムシに職業はありません。ここの置き換えが難しいところではありますが、カブトムシの気持ちになって考えます。彼らの中での価値観は「樹液」と「メス」です。
ツノを使って樹液をなるべくたくさんとる。
ツノの大きさより、強さの方が大事。
強いヤツがメスとれる。
第三段落、第四段落も要は同じです。
しかしもう一つの側面として、人間には知的好奇心・探究心というものがあり、「たくさんのことを知りたい」と思うのと同時に「たくさんのことを知っている人はすごい」という価値観がある。だから「博識」とか「物知り」という評価が生まれ、「たくさん知っている事が偉い/教養がないことは悪」という「どれほど持っているか」のヒエラルキーがあるのもまた事実だ。特に現代の情報社会はそれに輪をかける。もはや知識の母数は無限大となり、そこでは使うことよりも得る事が先行している。
この知識量至上主義で特筆すべきは「他人の知らないことをたくさん知っているから偉い」という質的な一面もある事だ。しかしながらこれは一概には否定しがたい。例えば教師は人の知らないことを教授する事が仕事であり、医師は人の知らない知識を使って診断・治療をする。実際、他人が知らないことを知っているということ自体は十分に価値である。しかしそれが量至上主義的になるとやはり「知は利用するものだ」という本質から遠ざかる。その最たるものがクイズである。確かに東大王は一般の人が知り得ない知識を持っている。しかしそこに他者のための利用という目的はなく「得る事」が自己目的化している。その原動力はやはり「他人と違うことをたくさん知りたい」ということに他ならない。これはボードリヤールのいう消費社会の構造に似ている。「記号」としての知は自分と他者を差異化し、知は所有する段階ですでに「消費」されている。
ただカブトムシの世界にボードリヤールは通用しないのでこの辺はカットします。代わりにもっと(カブトムシにとって)わかりやすい例を入れましょう。
だけど人間はツノの大きさでカブトムシ比べる。値段つける。
ツノの大きいカブト、「ムシキング」では強い。
最後は第五段落です。落とし所は人間もカブトムシも一緒です。
しかし現代、知のアクセス可能性自体が技術の進歩で大幅に底上げされた。だからおそらく「調べればすぐになんでもわかる」状態が普遍化した場合、そこに知識量の多寡という価値観はもはや存在し得なくなる。顕著なのは高校生クイズがある時を境にいきなりひらめき勝負のようになったことだ。昨今叫ばれる「AIに仕事を奪われる」というのもその類の話だ。知のヒエラルキーは今後「どのように使うか」にシフトしていくだろう。それが良いことか悪いことかはわからないが。
結局文章は繰り返せば繰り返すほど良いわけです。特に相手の頭がそんなに強くない場合は。ということで結論は第一段落のほとんど繰り返しが良いでしょう。
だけど「ムシキング」もう流行らない。
だから、ツノは使う事が大事。
上手にツノを使えるカブトムシが王様。
いかがでしょうか?カブトムシの皆さんにもわかってもらえるような文になったと思います。ただ書き終わって気付いたんですが、オス前提の文章ですね。フェミニストのカブトムシに見つかると大変なので黙っておいてください。